（５）
「山下さんと宮部さんがあやしいっての、本当かもな。」
沢田はポストウォーターを一口含みながら言った。初夏の風が心地よい。空は薄青く澄んでいる。
「そうだろ。あの二人、沢田がいないから、いつも一緒になんかしゃべってんだぜ。」川添はプラスチックのベンチの背もたれに体重を預けながら言った。
「まあ、別にどうでもいいんだけどねえ。午後実験室行くんだろ？」そう言いながら沢田は立ち上がった。川添も大きなあくびを一つすると、ゆっくりと立ち上がった。
実験室で待っていた仕事は、攪拌棒のタール落としだった。ヘラと溶剤で地道にこそぎ落とすのだ。川添はやることが無いらしく、沢田の隣に座ると、今週末の競馬の話をはじめた。ダービーでいくら儲けたかは聞いていない。聞けば自慢されるだけだ。
そこへ、寒川がくるとドッカリと座った。川添のついてるマスターだ。１７５センチ８０キロという感じの筋肉質デブ。高校野球でキャチャーをやっいてたそうだ。黒縁の眼鏡で、右の頬骨のあたりに大きなほくろがある。沢田はなんとなくこの男が苦手だった。
「おう、めずらしい人がいるな。」言いながら寒川は白衣のポケットに手を突っ込んで、何かを出した。ミルキーだ。
「食べないか？」川添と沢田は白い包み紙にくるまれた飴玉を一つづつつまんだ。沢田はつまんだ手前、その白い塊を口の中にほうりこんだ。寒川も一つ自分の口に放り込んだ。「今日うちのチームは今ひまなんだよ。あと30分したら忙しくなるからな。」と寒川は川添の方を見ながら言った。
「今日はまいったよ。」一呼吸つくと寒川がまた話はじめた。
今朝電車に乗っていて寒川が痴漢にあったという話だった。ラッシュの電車の中でほっそりした20才ぐらいの男が寒川の股間をなでたというのだ。沢田は信じられなかった、こんなデブに痴漢する奴がいるんだろうか。
「そんな奴殴っちゃえばいいじゃないすか。」川添が口をはさんだ。
「殴ったら死んじゃいそうな奴だったんだよ。きれいな女の子に触られてると思いながらほっといたよ。」と言うと、寒川はカバみたいに笑った。笑い終えると、寒川は沢田の方をみて言った。
「沢田は痴漢にあったことないのか？」
「え？ないですよそんなの。」沢田は言いながら川添の方を見た。
「俺もそんなの無いですよ。」川添も否定した。
それを聞くと寒川は海坊主のように立ち上がり、隣の実験室へ鼻唄をうたいながら歩いていった。
（６）
もうすぐ夏休み。沢田も川添も一応希望の就職先の内定をもらっていた。しかし、この年の就職戦線は例年と異なり厳しかった。特に女性に厳しく、女子学生はまだほとんど決まっていなかった。宮部も例外ではない。
けれども、山下と宮部はあいかわらず。実験室では二人はデートに行ってるだろう、との噂だった。そんな噂を知らないのは本人達ばかり、という状態だ。沢田もあいかわらずで、就職試験が重なりほとんど実験室には行ってなかった。
川添がサバの味噌煮定食をつっつきながら言った。
「寒川さんが、宮部さんのこと好きだって言ってるの知ってるか。」
「ああ。」沢田は応えると、お茶を一口すすり、話を続けた。
「実は寒川さんこの前さ、僕に向かって”宮部さんてかわいいと思わないか？俺好きなんだよ”なんて言うんだよ。宮部さんに寒川さんの思い伝えて欲しいってことかな？」
「かもな。」と川添は返事した。
「でも、寒川さんがそう言ってるの宮部さんに伝わってんじゃないか？」
「伝わってるかもな。」川添は答えるのが面倒臭そうだ。
「山下さんと寒川さんて仲悪いのかな？」
「かもな。」言いながら川添は茶をすすった。
沢田には納得いかなかった。どうして宮部がそんなにもてるんだろう。何か隠れた魅力でもあるんだろうか？
1999/01/28 wrote