（３）
沢田はクソ面白くも無い「無機化学」の講義を後ろから３番目の席で悪友の、川添と一緒聞いていた。正確に言えば全然聞いて無かった。腹を前に突き出した、頭頂部のテカテカひかる教授が、黒板に何か文字を書いていたが二人は板書をする様子もなかった。川添も工業有機の研究室だ。沢田が誘ったのだった。
二人仲良く、昨年この無機化学は単位を落としていた。２年目だ。この授業は始業と同時に出席カードを配る。それも毎回違う色のカードを配る。そして終業のときそれを回収する。だから、授業の頭から尻尾まで席に座ってなければならないのだ。
川添は小さく折りたたんだスポーツ新聞を、前の席に座る学生の背中に隠しながら言った。
「今度はナリタタイシンだめだろう」
今週の日曜にはダービーがある。川添と沢田は競馬仲間でもある。授業が終わったら場外馬券売り場まで行く予定なのだ。
「僕はツジユートピアンを狙ってるんだ」沢田言った。
「なんじゃそりゃ？そんな馬出たっけ？」川添は出馬表をながめまわしていた。
「みんな気付いてないと思うけど、弥生賞のときいい足つかってたんだよ」
「で、5着？」
「ああ、そうさ」沢田は狙い馬をけなされてちょっと気分を損ねていた。
「俺はビワの複勝でいく」川添は複勝にドカンと懸けるという馬券術なのだ。一方の沢田は穴狙い。
「僕もビワは単を買う。1番人気はウイニングチケットだろ？この馬顔が好きじゃないんだよな」沢田の右斜め前に座っている男は熟睡している。
「顔とかそんなこと言ってるから当たらないだよ。」
「でも好きになれないものはだめなんだ。」
その後、2人は土曜日のメインレースの検討もやった。しかし、授業が終わるまで、まだたっぷり30分はあった。
「沢田んとこのマスターの山下さんと宮部さん、あやしいって噂知ってるだろ？」暇に飽いたか、川添が突然切り出してきた。
「え？そんなの知らないよ。」沢田は本当に知らなかった。
「言われてみれば、僕が実験さぼってるからあの二人はいつも一緒だなあ。でも、山下さんて彼女いるんじゃないのか？」
「いるみたいだけど、山下さんて誰とでもつきあうって噂だぜ。」川添はボールペンを左右に振りながら言った。
そう言われてみると、沢田は山下と宮部の関係が気になって仕方がなかった。
（４）
月曜日。沢田は今日も就職セミナーに行っていた。今日のは完全なひやかしだ。既に就職試験にいくつか落ちていたが、内々定も一応一つもらっていた。現在もいくつかの会社に対して就職活動を平行していた。
昨日のダービーを勝ったのはウイニングチケット。ビワハヤヒデは2着。沢田の狙ったツジユートピアンは馬群でもがいていた。着順もわからない。川添のやついくら買ったんだろう。思いながら、就職セミナーの会社概要を聞いていた。
今日の会社はテレカと交通費と言って1000円くれた。バイト代としてはまあまあかな、と思いながら沢田ゆっくりと昼食を食べていた。13時を回っているので、店内は静かだ。
沢田は午前中就職セミナーに行ったときは、いつも実験室に顔を出さなかった。行くのが面倒だし、スーツを着ているからだ。しかし、今日は山下と宮部のことが気になって仕方がなかった。ちょっとだけ顔見せて帰ることにした。
研究室に近づくといつものピリジン臭が鼻をついた。この臭いがスーツに染みると嫌だなと思いつつも、実験室に入っていった。山下と宮部の姿を探した。二人は油を蒸留するエバポレーターの前に座り、何か雑誌のようなものを見ているようだった。こうやって見ると確かにあやしい雰囲気だ。声をかけるべきか、一瞬ちゅうちょしたが、2人の背後に近づいていった。すぐに山下が沢田に気が付いた。
「お？どうだった？」
「いや、今日はセミナーだからたいしたことないですよ。」沢田はこたえた。
「かっこいいね。よく似合ってるよ。」山下は沢田のスーツ姿を下から上まで見上げながら言った。
「そうですかあ？」言いながら宮部の方をチラッと見た。宮部は丸めた雑誌を両手で持って回転するエバポレーターを見ている。ＴＯＫＹＯウォーカーだ。
「じゃあ、帰ります。」なんとなくいづらい雰囲気に、沢田はそう言って実験室を後にした。
1999/01/08 wrote